伯母の告別式に行ってきた。
私は喪主側でもないのに、相変わらず緊張して動悸が激しい。
きのうのお通夜よりは慣れたが、3年前の父の葬儀の時も
こんふうだったことを僧侶の読経が続く中、思い出す。
「最後のお別れです」と葬儀屋さんが言い、祭壇に飾られた
たくさんの花を切ってトレーに乗せ持ってくる。
棺の中にその花を遺族や親族で入れていくのだが、もっとも悲しい時でも
ある。
顔のそばには、家族がカトレアなど色のついた花で故人を守るように
埋めていく。
私は元気だったころの伯母の顔を覚えておきたいので、そちらではなく
足もとに白菊と紫色のデンファレを入れた。
余るほどの花をひとつひとつ入れることによって、あの世へ旅立つための
したくをしているという覚悟を、故人と遺族にさせているのだろうか。
こうやって、たくさんの花とともに逝ってしまうのだ。
そして棺にふたをすると、二度と見えず、二度と会えない人になるのだ。
当たり前のことなのだが、実際経験してみなければ実感できない
ことだろう。
人がひとりいなくなるということは、残された家族の心の中を
深くえぐる。
それは、亡くなった人との愛情の深さにもよるのだろうが、
時を経てもその痛みはなにかにつけて伴うように思う。
火葬場にマイクロバスで移動して、お骨になるのを待つ。
午前中に吹き荒れていた風はやんだようだ。
ちょうどその待合室から満開の桜が見えた。
花弁はうつろな曇り空に、まるではめ込み画像のように静止して
見えた。
お茶とお菓子を食べながら、従姉たちは談笑していた。
そんな姿をみると、強いなと思う。
私は、あんなふうでいられるだろうかと思ってしまう。
それは、自分の今の生き方がこのままでいいのかと問われているよう
でもあった。
私は喪主側でもないのに、相変わらず緊張して動悸が激しい。
きのうのお通夜よりは慣れたが、3年前の父の葬儀の時も
こんふうだったことを僧侶の読経が続く中、思い出す。
「最後のお別れです」と葬儀屋さんが言い、祭壇に飾られた
たくさんの花を切ってトレーに乗せ持ってくる。
棺の中にその花を遺族や親族で入れていくのだが、もっとも悲しい時でも
ある。
顔のそばには、家族がカトレアなど色のついた花で故人を守るように
埋めていく。
私は元気だったころの伯母の顔を覚えておきたいので、そちらではなく
足もとに白菊と紫色のデンファレを入れた。
余るほどの花をひとつひとつ入れることによって、あの世へ旅立つための
したくをしているという覚悟を、故人と遺族にさせているのだろうか。
こうやって、たくさんの花とともに逝ってしまうのだ。
そして棺にふたをすると、二度と見えず、二度と会えない人になるのだ。
当たり前のことなのだが、実際経験してみなければ実感できない
ことだろう。
人がひとりいなくなるということは、残された家族の心の中を
深くえぐる。
それは、亡くなった人との愛情の深さにもよるのだろうが、
時を経てもその痛みはなにかにつけて伴うように思う。
火葬場にマイクロバスで移動して、お骨になるのを待つ。
午前中に吹き荒れていた風はやんだようだ。
ちょうどその待合室から満開の桜が見えた。
花弁はうつろな曇り空に、まるではめ込み画像のように静止して
見えた。
お茶とお菓子を食べながら、従姉たちは談笑していた。
そんな姿をみると、強いなと思う。
私は、あんなふうでいられるだろうかと思ってしまう。
それは、自分の今の生き方がこのままでいいのかと問われているよう
でもあった。
コメント