不慮の死というもの

2008年6月15日
岩手、宮城内陸地震は行ったことがある場所と親戚がいることも

あって、朝からテレビをつけっぱなしでいる。

仕事中に崖崩れにまきこまれ亡くなった人が担架で運び出されてきた

所をテレビで映し出していたけれど、待っていた奥さんらしき人が

泣き崩れていた。

こういうのを見ると、私も涙がこみあげてくる。

父は癌と告知されてから4年7ヶ月ものあいだ頑張ってくれたが、

それは同時に、父を失う事への覚悟の期間が4年もあったわけである。

4年あったが、いやもしかしたらこのまま乗り越えてくれるんじゃ

ないかといった希望の方が強かったかもしれない。

「おとうさんそんなに苦しまないで、もう逝っていいですよ。

私、覚悟ができました。大丈夫ですから」と、泣きながら心の中で

訴えたのは、亡くなる1週間前くらいからだろうか。

それでも、悲しみは深かった。

不慮の事故などで家族を亡くした人は、もっとつらいだろう。

朝、元気に出かけて行ったのに、帰ってきたのは亡き骸だなんて・・・・。

家族に覚悟をもたせてもらえなかった死に方は、酷である。

また亡くなった人も言いたいことがあっただろうに、やりたいことが

あっただろうに、と思ってしまう。

新聞などでこういう事故や事件を目にするたびに、自分の生き方を
反省する。

それは、身の回りのものであったり、家族への接し方であったり

日々の言動であったり、これでいいのか?などと自問する。

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「なにげなく過ごしたきょうは、きのう亡くなった人のどうしても

生きたかった明日」 新聞より

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